自分とは何か

最近、、非二元論の伝統に関心が向いていて、エックハルト・トール、ガンガ ジ、ニサルガダッタ・マハラジ、ラマナ・マハルシの考えに触れています。自 我(エゴ)というものが物語に過ぎず、本当の自分とは異なるものであるとい うことを認識しようとしています。

非二元論(non-dualism)は、不二一元論、アドヴァイタ(Advaita) とも呼ばれま す。非二元論は、アートマン(Atman、真我、本当の自分、自己の本質)はブラ フマン(Brahman、宇宙の根本原理、究極の実在、あらゆる存在の真髄)と等し いという教えです。エックハルト・トールによると、「大いなる存在」こそが 「人間の本質」であり、「大いなる存在」とは、「死を運命づけられた無数の 生命形態を超える、唯一の不滅の命であり、あらゆる生命の奥深くに、目には 見えず、絶対に滅びることのない本質として、宿っている」ものです(「さと りをひらくと人生はシンプルで楽になる」、pp.25-26)。

非二元の世界観と対極にある二元的な世界観では、私たちは、一人ひとり、他 とは区別された自我(エゴ)をもっており、他と区別された自我として自分を 認識しています。自己と他者は対立し、分離しているという世界観です。

しかし、自分とは何か、自分とは誰かということを考えていくと、自分である と思っている自我(エゴ)というものは、自分が属する家族、社会、カルチャー の中で、他から隔てられた自分を防衛するために作り出した定義づけに過ぎな いことが分かります。ガンガジの言葉を借りれば、自我(エゴ)は物語に過ぎ ないという言い方もできます。

自分の考えや感情が他者から否定されたように感じられたとき、自分の存在が 脅かされたかのように、必死に反論したり、また、相手を攻撃したりする経験 は、誰しもあるでしょう。知らず知らずのうちに、自分の中に起きる思考や感 情を自分と同一視しているのです。

思考は有用なものですが、それを有用な道具として使うことと、それに振り回 されることは違います。自分自身を振り返ってみると、過去の苦い記憶・好ま しい記憶や、それに伴う感情を何度も何度も心の中で再生したり、未来の不安 を打ち消すため、あるいは、未来の好ましい展望を確認するために、堂々巡り の思考や、それに伴う正負の感情を繰り返すということを、頻繁に行っていま す。それは、思考や感情に振り回され、使われていることなんだなと実感しま す。

非二元論の教えに触れて、そういった思考や感情は、本当の自分(真我)では なく、物語に過ぎない自我(エゴ)が自身を防衛するために発動しているもの に過ぎないということを、あるがままに感じ取ろうとしています。

そのことによって何かを得ようとしているわけではなく、ただ、自我(エゴ) の奥深くに隠れている真我というものを認識しようとしています。 自分の思考や感情をじっと見つめる、自分の自我(エゴ)の声をじっと聴 く、ということに注意を払っています。真我は既にあるものであり、そこに至 るために思考を巡らすことは、思考の罠にはまることなので、じっと見つめる、 じっと聴くという態度をとっています。

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